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| 展望台 |
| 雨の音 竹本祐子(5月17日号) |
| 雨が降っている。 雨音はときにはしとしと、胸にしみる優しい音色を響かせる。大地を潤し、植物に元気を与え、作物を育てる。 心持ちによってはさびしく、あるいは悲しく聞こえ、つたい落ちる雨粒は、涙のようにも見える。 おなじ雨降りでも大風を伴う暴風雨は、自然の脅威を人間に思い知らせ、情け容赦なくたたきつける。木の葉や枝までも舞い落ち、空飛ぶ鳥たちも息をひそめてどこかに避難している。 やさしく降る雨も、激しく吹きつける雨も、地表を流れて川からやがて海へと流れ下る。が、それ以上に地面に浸透して、豊かな地下水となる。安曇野市では最近地下水をくみ上げすぎたせいか、ワサビ田の湧水量が減ったり、畑の水位が低下しているという。 造り酒屋は昔から水の恩恵を受けている。水は酒造りの命でもあるので、水質が重要な役割を果たす。長野県は水資源に恵まれ、良質な軟水が各地で採取できる。おかげで全国のなかでも酒蔵がたくさんある県のひとつ。 軟水は日本人の口にあい、お茶やだし汁に最適で、煮物など味がよくしみる。ヨーロッパ産の硬水などは、灰汁(あく)だしにはよいが、お米を炊くと硬くなってしまうという。 酒造りにおいては、軟水は発酵を穏やかにすすませ、仕上がりもなめらかに調和する。豊かな水資源にあらためて感謝するとともに、これからも大切に守って行かなければ。 コップ一杯の水が急になにやらいとおしい。 (亀田屋酒造店社長) |
| 東京都慰霊堂 菊地俊朗(5月15日号) |
| 上京の折、2時間ほどの余裕があれば「界隈漫歩」を楽しむ。谷中、本郷、神田、麻布…。毎回、意外な“発見”をする。 先日、両国で国技館と江戸東京博物館の間に、立派な三重塔がのぞいていた。行ってみると横綱町公園。その中央を占める東京都慰霊堂だった。関東大震災と東京大空襲の犠牲者16万3千人の遺骨を安置している。 公園は大震災当時、旧陸軍被服廠(しょう)跡地だった。至るところで出火した火災に逃げ惑った人々は、隅田川べりの跡地なら助かる−と、家財道具を大八車に積んで押しかけた。その数、4万とも5万とも。が、火災の強い輻射(ふくしゃ)熱で発生した大旋風が8万平方メートルの跡地を襲い、家財ばかりか人も空に吹き上げ、火中にたたき落とした。鎮火した42時間後、跡地だけで3万8千の遺体が残されていた。 高さ41メートルの三重塔を背に、のべ1100平方メートルの慰霊堂は昭和5年、寄付金などで造られた。その後昭和20年3月9、10日の大空襲の犠牲者10万人余も合祀(ごうし)し、毎年2回の災難日に大法要を続けている。が、私もだが、都民ですら堂の存在を知らない人が多いとか。 首都直下地震へのおびえが広まっている。中央防災会議の予測だと、夕方6時、風速15メートルの条件で震度7なら、死者1万1千、負傷者21万、建物被害85万とされるが、防災専門家は火災被害を重視している。ガソリンを積んだ車にとどまらず、家財、衣類に至るまで今や石油加工品だらけ。地震は揺れもだが、二次被害が甚大と慰霊堂は教えている。 (ジャーナリスト) |
| 東京日記(その4) 木村明男(5月12日号) |
| このところ、東京のテレビは毎日スカイツリーを映し、「さあ、いよいよ…」とアナウンサーは叫ぶ。さあ、いよいよの開業日まであと10日で、前景気がにぎやかだ。おかげで、この塔は3本足で立っている、とか、火事やテロで逃げる時は階段を2000段駆けくだれ、とか新知識が無学の私にも吹きこまれる。 先日この高楼に登られた天皇・皇后両陛下がにこにこ顔で画面に出ていたが、そう言えば、お二人のご成婚の前年、東京の別の一画に別の高塔が建ちあがり、東京タワーと名づけられた。 半世紀をへだてて東京にできた新旧2つの高塔に、結局私は登らずじまいに終わりそうだが、ここに、テレビ局は見向きもしないだろう古い、古い“塔”が1つある。 旧江戸城(すなわち、現皇居)の天守閣は明暦の大火(1657年)で焼失したが、その跡地はきれいに保存されてあるという。そこが全江戸城用地の最高地点だと聞くから、これを“私の塔”とみなし、登ってみたいのだ。目的は、1人の教師が初めて生徒に「先生!」と呼ばれ「腹のへった時に丸の内で午砲(どん)を聞いたような気がする」(明治39年「坊っちゃん」)と夏目漱石に書かしめた、その音を聞きたいからである。天守跡に午砲(ごほう)台が残るというが、大砲は今はない。その音も、今はない。が、想像はできる。明治初年から大正にかけて毎日正午に1パツずつ発射され、東京市民に親しまれた音だという。どかーん! (在カナダ・日本語教師) |
| 東京の表情が和らぐ季節 扇田孝之(5月10日号) |
| 4月中旬、JR渋谷駅と直結したホテルに泊まった。目と鼻の先に若者ファッションの聖地「109」、眼下は「バスケットストリート」(旧センター街)である。 ふと眼(め)が覚めると、午前2時だった。カーテンを開けると、結構、人がいる。「人通りが無くなる時があるのだろうか」と、野次馬根性がもたげてきた。睡魔と闘いながら、午前6時まで観察を続けた。3時半から4時近く、数人ほどになったが、人は絶えなかった。 その10数時間前、僕は、東京が4月の束の間だけ見せる、仄々(ほのぼの)とした気配に触れていた。新宿駅の切符売り場で、僕の前の青年が、自動販売機の上に掲げられた駅の表示盤をじっと見上げている。彼の順番になったのだが、「無いなあ、無いなあ」と、焦っている様子が伝わってきた。 「どうしたの」と声を掛けると、「東横線の元住吉に行くんですが、駅が無いんです」と言う。「あっ、ここはJR専用だから、向こうの販売機で、東横線の乗車券も一緒に買えますよ」と教えてあげた。青年は、標準語とは違うイントネーションで「ありがとうございます」と言いながら、雑踏に紛れていった。 この時期の東京には、就職や進学で上京してきた若者が多い。複雑多岐な交通網、想像を超えた雑踏、奢侈(しゃし)と享楽の渦に戸惑いながら新生活を始めている。彼らのフレッシュな香りが「東京」の表情を和らげるのだ。でも、「黄金週間」が終わると、誰もが「東京の人」になってしまう。 (地域社会研究家) |
| 絆診療所 神谷さだ子(5月8日号) |
| 4月30日に福島県南相馬市で行われた診療所の開所式で、壇上に立った遠藤清次先生は「1年ぶりに私は南相馬に戻ってきました」と挨拶(あいさつ)された。1年前の4月末、警戒区域となった小高病院は閉鎖され、院長の遠藤先生は職を辞して、猪苗代へ。けれど、突然の原発事故で生活を断ち切られた小高地区の方々が「小高」に寄せる思いは深かった。遠藤先生を猪苗代まで訪ねては、診療所の建設を訴えた。 小高の方々が診療所の再開に託す思いは、健康の見守りだけではない。生まれ、育ち、仕事をしてきた、各々(おのおの)が拠(よ)って立つ場を、そこに託していたのではないか。経営が厳しかった震災前も、「病院を守る会」をつくり、知恵を出し合った。敷地内の草取りも地域の人たちが、率先して行った。自宅の草は伸び放題でも病院の作業には参加し、翌日は腰痛で病院に行った、と豪快に笑いながら、皆で診療所の開設を喜び合った。 遠藤先生は、万感の思いで「絆診療所」と名づけた。小高の人たちが集まっている鹿島区の仮設住宅の一画に、鎌田實先生が揮毫(きごう)した看板が掛かった。 この1年間、目前の事しか見えなかった、とスタッフの一人がつぶやいた。そんな中で、皆で抱いた希望だった。打ち合わせで集まる毎(ごと)に、かつての守る会が蘇(よみがえ)った事だろう。願いは叶(かな)うものなんですね、と遠藤先生は、両肩の緊張感をそっとおろした。 看板には小さく「3・11被災者のために」と書かれている。 (日本チェルノブイリ連帯基金事務局長) |
| 啄木―没後百年 小林俊樹(5月5日号) |
| 啄木忌(4月13日)を数日後に控えた4月初旬、旧知の旅行作家岡田喜秋さんの最新作『人生の旅人・啄木』が、秀作社出版から送られてきた。没後100年の震災後の昨秋、東北から北海道と、啄木の跡をたどった貴重な書き下ろしだった。津波に襲われて消えた、最終章の高田松原の記述「歌碑は砂に埋れて」は、ことに哀切の感が深い。7万本の松原は、奇跡の1本だけを残して消え、畏友金田一京助の筆になるという、昭和41(1966)年建立の歌碑は、すでにその位置すら分からなかったとある。歌は啄木を愛唱する誰でもが知る、「いのちなき砂のかなしさよさらさらと握れば指のあひだより落つ」だが、筆者はそれを「津波の跡を訪れた人の心境そのものだった」と記している。 その松原は江戸時代の初期、防潮林として植えられたものだというが、啄木の一行6人が、三陸海岸に沿ったそこを訪れたのは、明治33(1900)年夏、15歳の中学3年生だった。計画したのは、盛岡中学当時の担任富田小一郎先生。気仙沼で初めて海を見た、夏休み数日間の徒歩旅行だった。 この旅が啄木を変えた。ことに、陸前高田の浜で、初めて見た蟹(かに)の姿は、忘れられない名歌を遺(のこ)すことになった。この蟹との初対面は函館ではない。歌集『一握の砂』の冒頭「東海の小島の磯の白砂に…」は、ここ高田松原での記憶の再現だった。この旅に同行した舟越という人の日記には、「貝拾いおもしろし、蟹も多く群がりおりて、面白ろかりし」とあったという。震災が呼んだ、新たな「開眼」だったのだろうか。 (日本山岳会会員・著述家) |
| 命を大切に 下平次郎(5月3日号) |
| 当たり前のことだが考えてみた。すべての生き物を生かしている力が命である。すべての活動の元でもある。だから何事にも代え難い最も大切なものである。命の大切さは、人間だけのものではない。地球上にあるすべての生き物を尊重し、大切にしたい。 小さな虫も、土の中の微生物も、動物ばかりでなく地球上に生きている植物も大切にしたい。人間は万物の霊長として不思議な能力を持っている。人間はサル目のほ乳類に分類される。手や足の5本の指が複雑な動きができる。前を向き、双眼視が可能、色覚や大脳が発達し知能が高い。ものを考え行動する。人間のことを辞書で引くとたくさんの事が書いてある。 生物界の頂点に立つ人間が、暮らしのじゃまになるものはすべて命を奪っていいものか。畑を耕しながら考えた。土の中から出て来たカエルをよけてハンドルを切った。どんな小さな生き物でも生きる権利がある。生きるものとして、実を結び子孫を残そうと努力している。江戸時代の「生類憐(しょうるいあわ)れみの令」を拡大して動物(犬)だけでなく植物にも及ぼす規範ができないか。地球上の生き物と共生する事を考えた。 これ以上、人間の勝手な行動による競争や紛争をやめて、ヒマラヤの秘境ブータンの国のように、自然を大切にして必要なものだけつくる。お互いに分け合い助け合い暮らしてゆく、そんな生き方に感動した。紛争・戦争はやめて競争はスポーツの世界だけにしたいものだ。 (農業) |
| 予想と現実 宮地良彦(5月1日号) |
| 寺田寅彦の随筆を読んでいたら、次のような文章(要約)にお目にかかった。 −重爆撃機には1キロのテルミット焼夷(しょうい)弾を1000個搭載できるそうだ。それがただ1機防御の網をくぐって市の上空を駆け回ったとする。1000個の焼夷弾のうち半分は川や広場に落ちて無効になるとして、500カ所に火災が起こる。10機来れば5000カ所。市民200万の5分の1が消火に当たるとしても1カ所につき80人だが、よほどの訓練がないと対応できないだろう。何カ月か何年かあるいは何十年のちに一度は、敵国の飛行機が夏の夕暮れに烏瓜(からすうり)の花に集まる蛾(が)のように飛んでくる日があるかもしれない。 昭和7年の寅彦のこの想像は、十数年後には現実となった。昭和20年3月10日未明の東京大空襲は、B−29爆撃機279機が飛来、投下された焼夷弾は33万発1665トン、焼失家屋27万戸、死者10万以上、負傷者40万、被災者100万といわれている。 戦前アメリカに留学した鶴見俊輔の後見人アーサー・シュレジンガーは鶴見に言った。「ペリーが日本に来た時右往左往した日本政府に代わった明治新政府は、十数年のちには列強の間に今日の位置を占めた。これほどの指導者を選ぶ力を持つ国が、負けるとわかっている戦争に国民を引きずり込むとは思えない」。 残念ながらこの予想は全く外れてしまった。 (信州大学名誉教授) |
| 「灰かぶり」って? 扇田孝之(4月21日号) |
| 何気に本棚を覗(のぞ)いていたら『初版グリム童話集』(白水社)が眼(め)に入った。14年前、大学生だった娘が買った本である。 懐かしさで目次を開くと、出版当時の挿絵とともに36編が収められている。「狼と七匹の子やぎ」「ヘンデルとグレーテル」「白雪姫」「赤ずきん」など、よく知っている物語から拾い読みを始めた。 改めて読んでみると、たとえハッピーエンドを迎えるにしても、意外なほど残酷な場面が多い。母娘、姉妹間の嫉妬、子捨て、強欲、復讐(ふくしゅう)に殺し合い…と、今さらながら驚かされた。そして、「灰かぶり」という聞きなれない話が、「シンデレラ物語」だと知った。 本文中に「シンデレラ」という表記はない。「…いつも灰とほこりの中をはいずりまわり、うすぎたなく見えた」ので、「灰かぶり」と呼ばれていたのである。また、煌(きら)びやかな衣装や6頭立ての馬車を用意したのは、魔法使いの老婆ではなく鳩である。そして何より、ガラスの靴ではない。1晩目は銀で、次の晩、お城に脱ぎ捨てたのは金の靴なのだ。しかも、2人の義姉は王子の持ってきた靴を無理に履こうと、踵(かかと)や爪先を切り落としたという描写まである。 そう言えば、『イソップ物語』の「蟻(あり)とキリギリス」の元は、キリギリスではなく蝉(せみ)だという記述が、『ファーブル昆虫記』(岩波文庫、第10分冊)にあった。時の経過、国柄、風土などの影響を受け、諸事は変わっていく。至極当然の道理を再認識した、今日この頃である。 (地域社会研究家) |
| せせらぎ |
| 春宵一献贅沢感謝 狭間壮(5月8日号) |
| 清酒「藤の滴(しずく)」が旨(うま)い!私、飲みました。冷やで、燗(かん)で。ぬるめの燗で飲めば、肴(さかな)はあぶった烏賊(いか)でいいなど「舟唄」の一節も口をつき、しみじみと酔ったのだった。 この酒、北栗フレンズの藤澤さんからいただいた。1本720ミリリットルのビン詰め。国内限定100本。そのうちの2本が、私の胃の腑(ふ)におさまった。 宝くじ当選的確率の限定清酒は、その醸造のいきさつを知れば、さらに味わい深くなるというものだ。 メッセージカードにいわく、<オーダーメード「藤の滴」をお届けします。平成23年度松本市島立北栗地籍で私が生産したコシヒカリを基に塩尻市の酒造会社「笑亀」において醸造したお酒です。精米歩合90%。ラベル「藤の滴」の字は娘が書きました。美味(おい)しく出来上がっていますので、ご笑味下さい> 我が田より穫(と)りし米を原料にとは、贅沢(ぜいたく)な道楽だ。由来書きを読みながら、その道楽の滴を舌の上にころがす。まさに至福。 少しく酔いがまわれば、あれこれ親しき人の顔が浮かぶ。一人で美味しいことやっちゃって、いや申し訳ない…。談論風発怪気炎の酒席には似合わぬものと、独り合点の手酌酒。こころ静かに味わいの時を過ごしたのだった。 盆栽の鉢から地におろした姫りんごが花をつけた。今夜はワインをあけよう。塩尻の高校生醸造の、これまた限定ものを1本いただいてあったのを、思い出した。春宵一献の贅沢。感謝である。 (声楽家) |
| 音のある風景―錆び付いた楽器 岩淵順子(5月5日号) |
| 我が家には、何十年とかまってもらえず錆(さ)び付いた楽器が4台ある。その1、オルガン。その2、エレクトーン。その3、ピアノ。いずれもこのままではかわいそうだ。何とかしてあげねばとは思うが、使う当てもないのに頼まれて買い取ったり、狭くて置き場所がないからと送りつけられたり、もともとは私の楽器ではないので仕方ない。 しかし、一番気の毒なのは4番目の楽器・わが声帯である。幼少期のちょっとした嫌な体験の数々と変声期で声が出にくいのが重なって、基本的に歌うことを封印して半世紀近くが経過した。 それでも散文詩を書いている限りは不都合を感じなかったが、音を伴う歌謡詩を書くようになって、致命的な弱点に気づいた。これではいけない、何とか声を出してみようと一念発起、悪戦苦闘するも、錆び付いた声帯はなかなか言うことを聞いてくれない。 赤面するほどハチャメチャに外れた音はもとより、かすかに外れた音も認識できるのだから、少なくとも知覚性の音痴ではなかろうが、世に言う運動性の音痴である。 いったん正確に音程がとれてしめたと思っても、次の瞬間、痰(たん)が絡まったように声が捕縛されて、同じ音を再現できない。きっと声が錆び付いて、動脈硬化を起こしているに相違ない。こりゃ駄目だ、私が人並みに歌うということは、お天道様が西から出るに等しいか。 だったら、お天道様を西から引っ張り出してみるも酔狂で面白かろう。とりあえず、声の錆落としに挑戦してみよう。 (作詩家) |
| 小松一三夢の夢 小松芳郎(5月3日号) |
| 4月8日の日曜日、私は庭木を移植したり畑を耕したりしていた。今年の農作業の始まりである。 ちょうど60年前の昭和27年4月8日、松本の六九町の食堂に、数人が集まって「街を花いっぱいにする会」が発足した。 「私の住んでいる日本アルプスの麓、松本の街を花でうめようと考え、私の胸は少年のようにおどりました。そうだ、花を街にうえることが世の中を明るくする一番よいことだ、と強く感じたのです」。その創始者の小松一三夢(いさむ)(本名は勇)は、ある日の夕暮れに女鳥羽川河畔に立ったとき、霊感のようにひらめいたという。 伊那の高遠生まれの一三夢は、当時は松本の旭町小学校に勤めていた。病に倒れ一時は危篤状態に陥り、校葬の準備を始めるほどだった。一命をとりとめて3年間の闘病中であった。 復職した一三夢は、小学校の空き地に黙々と花の種子をまき、苗を植えた。父母や子どもたちに語りかけ、家の前や空き地、土手などで花づくりを進めた。はじめは共鳴する人は少なく「腹いっぱいの会ではないのか」との声も上がったが、一三夢は根気よく市民に花いっぱい運動を説き続けた。 会の発足3年後には、全日本花いっぱい連盟の全国大会が、9年後には第1回花いっぱい世界大会が、それぞれ松本市で開催された。夢は実現し、全国へ世界へと運動は拡がっていき、松本は花いっぱい運動発祥の地となった。 あれから1カ月近くたった家の周りは、草木が競い合って花を咲かせている。 (信濃史学会会員) |
| 傑作は生きて 池田久子(4月24日号) |
| おそかった今年の春もようやく定まったようですね。街の堀ばたの桜にも、やっと季節がめぐって来ました。2010年の4月9日には、作家井上ひさしさんが亡くなりましたが、一昨年はこの頃花ざかりでした。 巨星墜つ雨のようさま(夜)花ざかり ひさ 家の西側にある公園のしだれ桜が満開で、夜の雨に打たれているのを見て、悲しみにくれていたのを思いだします。けれど今年は命日に花は間に合いませんでした。 去年の一周忌は、東日本大震災のショックで、季節のことは何も覚えていません。花どころではなかったのですね。 ところで、笑いに包んだシリアスな井上作品を世に出した傑作「ひょっこりひょうたん島」。あれにはちゃんとモデルの島があります。震災津波で960人の人口のうち93人の犠牲者を出した、岩手県大槌町の「蓬莱島」です。写真で見ると、本当にひょうたんの形をしたかわいい島ですね。 今、町は島の見える海浜の通りを公園にする計画だといいます。「ひょっこりひょうたん島」のキャラクターを置いて、皆で遊べるような楽しい公園にしたいとのこと。町の仮設の酒屋さんも、壁にこの“うた”を貼ってがんばっているといいます。 そういえば宮沢賢治の岩手県花巻市にも、ギンドロ公園というのがあり、賢治の好んだギンドロの木(セイヨウハコヤナギ)の間に、童話「風の又三郎」の像たちや、詩碑がたくさんあります。 やはり傑作は死なず、生きて人を励まし続けるんですね。 (日本児童文学者協会員) |
| 春の陽に 上條香月(4月19日号) |
| 春嵐のくる前のおだやかな一日。昨年末のいけばなインターナショナルフェアで委員長をおつとめくださった、駐日ノルウェー王国大使夫人アニタ・プラタップ様のお招きを受け、大使館にお伺いした。 さすが北欧風の白と黒を基調にされたアークティックホールで、はじめに「Bunad」と呼ばれる民族衣装を着たノルウェーの子供さんたちによるお歌に迎えられた。大使夫人のごあいさつがあり、ヘル・スタイルノルウェー(ノルウェーの魅力を伝えるのに最も影響力のある人物に与える称号)であり、NHKテレビ等でご活躍の中村孝則氏による映像を拝見した。 国連の定める「良質な暮らし」基準で常にNo.1の座を維持している国の、夏の白夜、冬の見事なオーロラ、大自然の豊かさに育まれている人間性、住環境、素晴らしい技術やアイデアいっぱいの産業等々のご紹介だった。 その後、ピアニスト長富彩様による、ノルウェーの作曲家エドヴァルド・グリーグの作品より「小鳥」「小人の行進」等々に耳を傾けた。 有名な建築家、吉村順三氏によって設計されシンプルで趣深く、エドヴァルド・ムンクの絵も飾られてある公邸でのティーパーティーでは、いささか苦手な私も、スモークサーモン、クッキーなどをいただいた。常にフレンドリーで、先頭に立っておもてなしをしてくださった大使夫人のお心に、身も心も豊かになって公邸を後にした。 わが信州も大自然の宝庫。自然に感謝し、そこからの学びをいかしていかねばと思った尊い一日であった。お庭の名残の椿が美しく、印象的であった。 巨勢(こせ)山のつらつら椿つらつらに見つつ思はなこせの春野を 坂門人足(万葉集) (真派青山流華道家元) |
| 子供の名前 大岩堅一(4月14日号) |
| 最近、テレビのCMなどに引っ張りだこの若手女優2人「武井咲と剛力彩芽」。この名前、何と読むかご存知ですか? 正解はタケイエミ、ゴウリキアヤメ。どちらが難易度が高いかと言えば、武井咲のほうでしょう。なぜなら、剛力彩芽は常識的な読み方として「なるほど」と納得がいきますが、咲をエミと読むのは常識外だから。 その道の専門家に以前聞いたところ、名付けに関する我が国の法律は、太郎と書いてハナコと読もうとケンイチと読もうと、全く規制が無いんだそうです。だからと言って咲でエミとは、他人に正しく読まれることをハナから期待していないのか、とも思えてしまいます。 何を言いたいのか、もうお分かりでしょう。そう、近頃の子供の名前のことです。ただ、具体的に「こんなのダメ!」と並べて書きたくても、それが出来ないのが名前を扱う難しさ。 付けたのは親であるけれど傷つくのは本人だし、かと言って簡単に変えることも出来ない。だからこそ若い親の世代には、子供の命名についてしっかり考えてほしいと切に願っています。 名前の基本は「他人に正しく読んで、あるいは呼んでもらうこと」。まず、突飛な読み方をしない。次に、小難しい字は使わない。そして、その漢字が持っている意味をきちんと知っておく。 これは敢えて書きますが、優と憂はニンベンの違いだけであっても、意味は全く変わります。稜と陵もしかり。最後に、ひと目で男か女か判ることも大事でしょう。若いパパ・ママ、ご参考までに。 (フリーアナウンサー) |
| 人生を振り返った字 黒田重夫(9月27日号) |
| 偶然、あるいは奇跡的に唐詩など中国古典を開くことがある。今回は敬老の日にちなみ「論語」の例の「三十にして立ち、四十にして惑わず」のところ。「60歳でだれの意見にも素直に耳を傾けられ、70にして心の欲するところに従えども調和を保つ自在な境地に達した」(久米旺生訳)。いいね。 とても実現不可能な境地だ。それでは、80歳になったら実現させようとしても、孔子は74歳で亡くなっているから70まで。しかし、長寿社会の現代は日野原重明医師や柴田トヨさんの詩集など100歳組をはじめ多くのお年寄りがおり、古典を引っ張らずともこれらの人の著作で十分だ。 中国にはもう一つ、「礼記」にも年齢に関係した字があるようだ。孫引きで詳細は知らないが、10歳は幼、20は弱、30を壮、40を強。20が弱で40が強とは。50歳から難しい字が出てくるので「字統」片手に調べる。 50は「艾」。ガイ、ヨモギなどとも読み、「ヨモギは蒼白色なので老人の称となる」とある。60は「耆」。キ、シ、年寄りとも読むという。70はまさに「老」。80と90は同じ「耄」。ボウ、モウ、年寄り、老いぼれ。100歳は期頤(きい)。「人生まれて100年を期という。頤(やしな)はる」。飲食、居所すべて人に養はる|と他の辞書。 せっかく辞書を片手に挑戦したが、50以降は要するに「年寄り」で、80と90歳を一緒にする手抜きなどがっかり。寿命の全く違う2000年以上前の書だから仕方がない。長い自分史は苦手という人も、漢字1字か2字でその年代を振り返ってみるのも面白い。俳句のように短いが、かえって本質を突いたものになるかも知れぬ。 (松本地区書道協会理事) |
| 陽だまりの家 合木こずえ(9月8日号) |
| その家は、東山山麓線の小高い丘の上にある。塩尻から松本へ、住宅地を抜けカーブを曲がると田圃(たんぼ)が連なる緑の絨毯(じゅうたん)を背に、瀟酒(しょうしゃ)な一軒家が現れる。 砥(と)の粉色に塗られた漆喰(しっくい)の壁は、所々濃淡がついて手作業の味わい深く、玄関前の小ぶりな塀は、なめらかな曲線を描いて美しい。アンティークな木製のドアや小さな木枠の窓には、シンプルにデザインされたアイアンが使われ、コートダジュールやプロヴァンスの家を思わせる。 西の斜面側にはハーブの香りが漂いそうな庭。せり出したウッドデッキにガーデンチェアがのぞいている。脇に並んだ小型の車も、家との調和が取れて愛らしく、その景観はニースあたりで売られているポストカードの絵柄のようだ。 入院中の父に付き添う行き帰り、この場所が近づくと胸がときめく。今日の父はどんな様子か、熱は下がっただろうかと案じながら病院に向かう午後、陽射(ひざ)しを浴びたこの家が視界に入ると、すーっと不安が消えてゆく。 刻々と変わる症状に落胆し、泣きながら帰る夜道も、小窓からもれる柔らかな灯(あか)りにほっとして深呼吸ができる。どんなに急いでいる時も、助手席の母と話している時も、後続車に追い上げられている時でさえ、この家に近づくと速度を落とさずにはいられない。 病院に通い始めて2カ月余り、動揺を繰り返すうちに、心はもう多くを望まず、わずかな救いに満足するようになった。そんな日々に束(つか)の間のやすらぎをもたらす陽だまりの家。小さな拠(よ)り所を見つけた幸せをかみしめて、今日も車を走らせる。 (シネマコラムニスト) |